カテゴリー: 法令

  • 不正競争になる「類似・混同」

     一気に例を挙げます。

     不正競争の例「マンパワージャパン vs 日本ウーマン・パワー(同業種)」「ヤシカ(カメラ) vs ヤシカ(化粧品)」「NFL(衣類) vs NFL(家具)」「シャネル vs スナックシャネル」「シャネル vs ラブホテルシャネル」「ヨドバシカメラ vs ヨドバシポルノ」「東急(鉄道) vs 高知東急(タレント)」「VOGUE(ファッション誌) vs ラ・ヴォーグ南青山(マンション)」

     不正競争でない例「リーバイス501 vs 505(同業種)」「泉岳寺(寺院) vs 泉岳寺駅(都営地下鉄)」

     実際の事件では、膨大な証拠資料と相互の言い分が文書で飛び交いつつ争われるので、焦点が見えにくいのですが、要は、商号や商標・意匠などによる他人のブランドイメージに、タダ乗り・悪乗りして利益を得ようとしたのか、それともたまたま似ているだけで、他人のブランドのイメージを利用する意図やブランドを侵害する可能性は全くないか、その違いが事実上の争点です。

     上記のうち、不正競争とされた案件は、名前があまりにも似ていたり(同じだったり)、販売方法や広告表示などがブランドにただ乗りするようなものだったり、実際に消費者・取引相手から混同したことで問い合わせが多発して業務に支障をきたしたり、風俗上のイメージでブランドの価値を著しく下げてしまうものだったりというものでした。
     なお、法律には「混同」と書いてあるので、シャネル事件のように、あの一流ブランドのシャネルがまさか場末のラブホテルやスナックを経営しているはずがないと誰もが考えるだろうという点をとらえれば、宝飾品ブランドとしての誤認混同がない以上、侵害にならないのではないかとの考え方もあります。
     しかし、最高裁は、不正競争防止法の「混同」概念には、ブランドがもともとしている営業との同一性誤認だけではなく、その他の業種であっても当該表示が使われた場合に一般消費者が受け取るイメージが模倣元のブランドに通じるところがあれば、侵害になりうると判断しています。

     他方、不正競争でないとされるケースは、上記の争点の判断で、似ているといえば似ているかもしれないが、その表示の使用によって、元のブランド表示が侵害されたり、あるいはブランドイメージにただ乗りして利益を上げようとするものではないとされたものです。

     以前にも申しましたが、他人の努力にただ乗りしないという道徳的ともいえる規範が「不正競争」という法律用語を通じて法規範になっている分野ですので、実務上はできる限り謙抑的な事業企画をするべきといえるでしょう。難しいことではありますが。。。

  • 不正競争防止法で保護される「営業」

     不正競争防止法は、いわゆる自由主義経済を前提として、各事業者間で、公正なルールの下で自由に競争をすることが、経済全体の健全性の維持に役立つという理念のもとに制定されている法律です。

     この法律で保護される「営業」に関して、面白い最高裁判例があります。それは、宗教法人の名称に関するものです。理解の前提として、宗教法人の仕組みについてまず説明します。

     宗教法人には、その法人が独立して一つの団体となっている「単立」宗教法人と、ある宗派の名前のもとに同じ宗派の宗教団体が多数集まっている「包括」宗教法人とがあります。多くの著名な宗教団体は、本部が包括宗教法人となり、各地に設けられた支部、分教会、末寺などがそれぞれ「被包括宗教法人」となって、上部団体である包括宗教法人に所属するという形をとっています。包括・被包括ともに、それぞれに代表役員という代表者の定めがあり、法的な観点からはそれぞれが独立した法人としての取り扱いを受けます。本件で問題となった「T」もこの包括宗教法人でした。

     さて、紛争の発端は、Tの分教会を主催する代表役員が、T本部と異なる独自の教義解釈に基づいて、T本部からの独立(被包括関係の廃止といいます)をしたにも関わらず、独立後も依然として「T・・教会」の名前で宗教活動をしていたことから始まります。本部の教義と違うことをTの名前で実行されたのでは、宗教団体としての統一が図れませんし、誤認をする信者などの出現により、布教活動にも支障が出ます。そこで、当然ながらT本部としては、その名称を変更するように、その元分教会の代表者に要請したのですが、全く聞き入れられませんでした(その代表者としては、自分の考え方こそがTの教義に合致しているとの信念があったのかもしれません。多くの伝統的宗教でも、いくつかの宗派に分かれていることは、今日当たり前ですから、それと対比して考えると、同じ宗名で別派があるという状況が必ずしもありえないものとまでは言い切れません)。
     結果的に、T本部は、裁判の手段を使いました。そこで、T本部が主張したのが、不正競争防止法2条1項の不正競争と、宗教法人としての名称使用権の侵害の二点でした。
     一審の地方裁判所は不正競争防止法の適用を認めましたが、二審の高等裁判所は、不正競争と名称権侵害の両方を否定しました。最高裁は高裁の結論を採用して、権利侵害を否定しました。
     ただし、最高裁は、宗教法人の活動全部に不正競争防止法が適用されないとしたわけではありません。「宗教儀礼の執行や教義の普及伝道活動等の本来的な宗教活動」には適用されないが、「それ以外の(例えば、境内地を駐車場として貸し出して収益を上げるような)収益事業」には適用されるとしています。これは、不正競争防止法が「経済収支上の計算に基づいて行われる活動分野での競争を公正の理念に基づいて規制しようとする目的」の法律であることによる適用場面の限定をした判断であり、司法として、宗教活動の自由に従前からかなりの配慮をしている傾向の一環でもあるとみられます。

     このような宗教活動に対する司法の抑制的な姿勢は、名称権侵害の判断にも影響しており、最高裁は、「多少の不利益があっても」本件の程度では、まだ名称権侵害ありとは言えないとの判断を示しています。本件のような場合には、同一の名称使用の事実だけではなくて、その名称使用により、包括法人側にも現実の経済的被害(たとえば、教義を混同されて、週刊誌等から名誉棄損を受けたとか、誤認によって一般信者が離反したとか)が発生したことまで立証できなければ、法的な損害賠償や名称使用の差し止めを求めることはできないと考えられます。

     Tがこの裁判でいったいいくらの弁護士費用を払ったのかは知りませんが、不正競争防止法を持ち出すのはかなりの無理があったように思われます。
     特に、宗教団体の内紛に対して、裁判所は信教の自由の観点から、積極的な判断を回避する傾向にあります。一般の事業会社にあっても、たとえば、「二人の社長候補のうち、どちらが適任か」などという問題を裁判所で争うことはストレートには不可能です。そのような事案では、手続きの瑕疵を主張したり、職務代行者選任申立のなかで、実質的な不都合を多数列挙して主張立証していく必要があります。
     裁判所だからといって、なんでもかんでも判断するのではなく、あくまでも憲法以下の法規範の適用を判断しているわけです。

  • 意匠の同一・類似の判断基準、裁判における「視点」の問題

     意匠登録により、新しいデザインは登録から20年間保護されます。そして、万一、同一類似の意匠が現れた時には、意匠権を根拠にして使用の差し止め等を請求でき、あとから同一類似意匠の登録請求があっても登録されないので、これを阻止できます。
    問題は、どんな場合に、同一・類似といえるのか、という点です。
    この点、意匠法3条1項では 「公然に知られている意匠 」「公刊されている意匠」「それらに類似する意匠」の登録が禁止され、同2項では、公然知られた意匠から容易に考案できる意匠も同じ扱いをされています。
     裁判例上では、1項は「一般需要者の立場から見た美観」の問題であり、2項は「当業者の立場から見た着想の新しさ・独創性」の問題であるといわれています。

     法律では、このように、ある規定の適用について、「誰の視点・立場」から見るかが重要な場面があります。
     民法などの一般的な規定の適用に当たっては、「一般通常人の立場」から見るのが通例です。この「一般通常人」という概念は実は、相当の「クセ者」であり、ある意味決して実在しえない「人」であるにもかかわらず、裁判では、それが基準となります。そして、最終的には、その事件を担当した裁判官が、「世間一般の普通の感覚を持った特に優れてもいないが劣ってもいない普通の人だったら、どう考えるだろうか」と推測を交えて考えて、結論を出すことになります。

     裁判での争いは、いかにして、裁判官に対して、「自分の主張する立場=世間一般の通常の感覚・視点」だということを、伝え、教育し、説得し、誘導して、自分の主張と同じ立場に立ってもらうかの勝負です。
     そのために必要なのは、サポートとなる資料です。これがなければ、単に「自分勝手なことをわーわー言っているだけの人」で終わってしまうのです。
     裁判では、「きちんとした裏付けをもとにして語る人」が最も信用されます。日ごろから、事実経過について、きちんと記録に残しておくことはこの観点から非常に重要です。

     もう一つ、重要なことは、決して「説明できない不自然な流れ」を作らないということです。
     第三者から見て、「なぜそんなことをしたかな」「どうしてそうなるのかな」という疑問を抱かせるような行動や資料が残っている反面、その一見不自然にも見える流れが第三者からみても自然だなと納得させうるサポート資料が残されていない場合は、この「不自然な流れ」に対する裁判官の疑問も解消できず、ひいては、仮に、(『事実は小説より奇なり』という言葉もありますように)「その不自然なありようそのものがまぎれもない歴史的真実」であったとしても、第三者(裁判官)の目からみたら、「不自然=信用できない」という判断をされかねない危険があるからです。

     意匠の話というより、裁判の話になってしまいました。ただ、上記のようなことを法的紛争場面で意識するかしないかによって、大きな損益の差が生じかねないので、予防法務的には注意を払う必要があると思います。